いなたいショーケース

反射的に投げ込んでいく実験です

ソトコト1月号にてインタビュー記事が掲載されました

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以前からお世話になっているNPO法人green birdの横尾さんにインタビューしていただいた記事が、今発売されているソトコト1月号にて掲載されています。今の仕事に行き着いた簡単な経緯から、ひばりが丘で取り組んでいる仕事についてまとめてもらいました。

『リレーでつなぐまちのプロデューサーズ』というインタビュー記事のシリーズなのですが、「プロデューサーというより、仕事的にはADやカメアシに近いのでは・・・」と、少しの不安を抱えながらインタビューに答えました。ただ、やっていることへの思いには不安はありません。

趣旨は本文をご覧いただければと思いますが、一つ言えることは、ぼくは決して表舞台に立つ人間ではなく、そして、間違いなく地域の主役は住民のみなさんであることです。 演者はみなさん。ぼくは裏方です。

 

そんなぼくの思いはともかく、自分の複雑な仕事について公に出す珍しい機会ですので、ぜひ手にとって見ていただけると嬉しいです。

嬉しいんですが、変なところでへそ曲がりなので「具体的にはどんな仕事なの?」と聞かれたら、

「むしろどんな仕事だと思う?」 「あなたは、どんな仕事だったら嬉しい?」 「というかおれ何歳に見える?」

と調子にのって、どんどん面倒くさい男になっていく気がします。 なので、自分からはっきり喋りだすタイミングをお待ちください。

年明けは機会に恵まれ、そんな謎の仕事について何度かお話します。

勝手にミステリアスにするなと関係各所には言われそうですが、どうぞよろしくお願いします。

https://www.facebook.com/events/1889373811296344/

さよなら惑星、さよならシェアハウス

ついついたくさん買ってしまったお米は、なかなか減らないもんです。


3月末。

豊島区の西側に位置する南長崎のシェアハウス「惑星ストレームホルン」が解散しました。住人が入れ替わり立ち替わり変わる中で、ぼくは解散前最後の住人の1人になっていました。

シェアハウスの歴史は、元同居人である小川光一くんのブログにある通り2012年から始まります。こう見ると歴代の住人が映画カメラマン、音楽家、旅人など、いわゆる普通に企業に勤めるサラリーマンが本当に少ないのに驚きますが、よく言われる「住まいがライフスタイルを体現する」といういい例かもしれないですね。


最後に住んだのは5人。

全員で顔を合わせたのは年に数回程度。全員仕事時間がバラバラで帰宅時間もほとんど合わないために、ひょんなタイミングで全員が集まってしまったら、ほぼ強制的にみんなで飲みに行くことがお決まりでした。だいたいほかの人が夕飯を食べ終わった時に限って誘いがやってきたものでした。

お世辞にもおしゃれなシェアハウスライフではありませんでしたが、家族みたいな暖かさと、いつまでも学生であるかのような青臭さと、それぞれの目標に向き合う純粋さにあふれた、最高の家。

そして、最高のメンバーだったと思います。

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* そもそも自分がこの家に来たのは2014年の年末。4月に大学を休学し、大阪で半年間インターン生活をした後に、東京に戻ってきてからのことでした。

当時は都内のアポ現場に取手のアパートから通っていて、たまたま光一くんと連絡をとっていたら、現場とシェアハウスが徒歩10分ほどの近さという事実がわかり、そこからとんとん拍子に入居が決まりました。

茨城の大学を出てから、ふらふらと飛び回りさまよっていた自分が、大宇宙TOKYOで最初に着陸したのがここ、「惑星ストレームホルン」でした。

何日もロケで家に帰ってこなかったり、仕事を辞めた途端に放浪し始めて旅先でお金を稼いだり、毎日日本全国で防災の重要性を訴えたり、自分らしい生き方をひたすら考えたり。そこには、およそ一般的な社会人とは異なった様々な働き方をしている生き物が、まっすぐに生きていました。

そんな星で生活していたら、普通の大学生だった自分は「新卒フリーランス」という、ちょっぴり珍しい生き物に進化していました。きっと知らず知らずのうちに、いろんな影響を住人から受けていたんだと思います。

この一年での本質的なパワーアップは自分でも確認できていないですが、もうすぐ何か芽生えるかなーと思いつつ、せっせと働く毎日です。

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** シェアハウスが解散して3週間。 今振り返ると、惑星ストレームホルンは、ぼくにとってただの住居ではなく、自分らしい生き方を考えられた場所でした。

そして、プライベートは一人でいるのが好きだったぼくが、「だれでも集まることのできる、暖かい場所でまた暮らしたい」と思えるようになったことが、1年ちょっとの共同生活で一番の宝物です。

いつか、美味しい串焼きを出すいつもの居酒屋に集まって、みんなで近況報告しあう日が来るのが楽しみです。

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最後に

◯元同居人、小川光一の著書『あの街に桜が咲けば』の電子書籍版がリリースされました!熊本が大変な状況のこんな時ですが、大切な誰かを守れるようになるために。 Amazon kindle( http://goo.gl/2JKtq5 ) 楽天 kobo( http://goo.gl/ziuQZB ) 紀伊國屋書店 kinoppy( http://ow.ly/10vqpy )

◯同じく元同居人、網倉彩人が兄弟で取り組んでいるプロジェクトが、クラウドファンディング挑戦中!(現在残り7日で達成率95%!) 「アフリカのマリ共和国で綺麗な水の出る井戸を作りたい!」 https://readyfor.jp/projects/africa_clear_water_project

 

 

 

ひばりが丘団地エリアに「ひばりテラス118」がオープンしました

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2015年から本格スタートし、ひばりが丘再生事業区域のエリアマネジメントをおこなっている「一般社団法人まちにわ ひばりが丘」。私も今年度から事務局スタッフとして常駐、参画しています。その活動拠点となるエリアマネジメントセンター「ひばりテラス118」をオープンし、11月14、15日でオープニングイベントを開催いたしました。

まちにわ ひばりが丘とは

「まちにわ ひばりが丘」は、ひばりが丘団地地域のエリアマネジメントに取り組むため、大手デベロッパー4社(大和ハウス工業株式会社、住友不動産株式会社、株式会社コスモスイニシアオリックス不動産株式会社)と独立行政法人都市再生機構(以下、UR都市機構)が連携のもと設立した一般社団法人です。 ひばりが丘の団地再生は、大手デベロッパー4社とUR都市機構が共同で地域のまちづくりからエリアマネジメントまで取り組む「事業パートナー方式によるPPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)手法」を取り入れた日本初の試みです。 地域住民のコミュニティ拠点となる「ひばりテラス118」の稼働により、子どもからご年配の方まで多世代が安心して生き生きと住み続けられる街を目指す、エリアマネジメントの取り組みがいよいよ本格スタートします。 現地には事務局が常駐し、「ひばりテラス118」の施設運営やコミュニティメディア「AERU」の発行、コミュニティ醸成のためのさまざまなイベントを住民とともに行っていきます。 (まちにわ ひばりが丘HPより) プレスリリースはこちらからご覧いただけます。

  ひばりテラス118は、ひばりが丘団地にあったテラスハウスという形式の住居をリノベーション。サークル活動やカルチャー講座、地域の集まりで使えるコミュニティスペースと、個人で作業などができるパーソナルスペース、そしてカフェや共同菜園、カーシェアなどの機能を備えています。

自然豊かで歴史が感じられるひばりが丘の地で、住民のみなさんがいきいきと暮らせるようなお手伝いをさせていだきます。ぜひ一度お越しください。

Neighbors Next U26 Projectがgreenz.jpに掲載されました

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9月6日の前期プレゼンテーションに向けて動いているNeighbors Next U26 Project。現在は各課ごとにアイデアを出し合い、よりいいアイデアになるようにブラッシュアップを繰り返しています。

6月末におこなわれたアイディアソンについて、greenz.jpでも記事にしていただきました。 記事はこちらからご覧いただけます。

私も事務局スタッフとして参加しており、少しだけコメントも載っています。 そして、そう。 お分かりの通り、春の記事の時からちょっとだけ痩せました。

Neighbors Next U26 ProjectがオルタナSに掲載されました

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9月6日の前期プレゼンテーションに向けて動いているNeighbors Next U26 Project。現在は各課ごとにアイデアを出し合い、よりいいアイデアになるようにブラッシュアップを繰り返しています。

そんな活動の様子をオルタナSに掲載していただきました。 記事はこちらからご覧いただけます。

Neighbors Next U26 Projectがwiredに掲載されました

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少子高齢化や人の無縁化がより進行するであろう日本の未来の都市。

その未来の住まいや暮らしのあるべき姿を、そのときに住まいの選択を迫られるであろう平成生まれ世代が考える、Neighbors Next U26 Project

その Neighbors Next U26 Project が WIRED VOL.15 “DESIGN ISSUE"に掲載されました。

雑誌、webともに掲載されており、webはこちらからご覧いただけます。

HITOTOWA INC.インターンも参加しており、私もプロジェクトの事務局スタッフとして活動しています。雑誌版では美味しい中華料理屋さんみたいな写真で写っています(当時太ってた)。

 

その暖かな後ろ姿に想いを込めて

約半年前、ぼくが休学して関西にいたときのことです。 その日、バイト先から帰宅しようとビルの外へ出た一歩目、珍しく父親から着信が。 入院していたおじいちゃんの容態が急変したとの連絡でした。

夜に予定していた先輩との食事や、次の日に入っていた打ち合わせ、週末のワークショップの準備など、全てをキャンセルさせてもらって新大阪駅から新幹線に飛び乗った矢先、名古屋へ向かう車内の中で、おじいちゃんの死が報されました。 85歳でした。

思ったよりもあっけなく、そして思った以上に早く、その時はやってきました。 父からの電話が切れた時に得たのは、事実を受け入れまいと頭と身体が乖離してしまったような感覚。 元々末期のがんを抱えていて、覚悟はしていたつもりだったにも関わらず、いざその報せがやってきた途端に空虚な気持ちが深呼吸と共に口から全身に回っていきました。

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おじいちゃんとの思い出を振り返ってみると、ぼくの両親は共働きで夜も遅くなっていたので、ぼくが保育園に通っていた頃の送り迎えは全て祖父母がしてくれて、自分の弟たちが小学校にあがるまでお世話になりました。 よくよく聞いてみるとその送迎の歴史は従姉たちから始まってて、それを合わせるとなんと15年以上も孫たちを乗せて毎日運転してくれていたみたい。

もちろん従姉たちと年齢的にかぶる時もあったので、いつもいつも、小さな子供たちをたくさん載せて。 車内がうるさくても穏やかに運転するおじいちゃんの背中を、後部座席から覗いていました。

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報せを受けてから3日後の告別式当日。生憎の強い風雨の中を、ありがたいことに500人くらいの方々がお越しくださって、会場の受付はてんてこまいに。ぼくがスタッフと一緒になって返礼品を運ぶくらいのもので、来てくださった方にはなかなかご迷惑をお掛けしました。 おじいちゃんは元々小学校の教員で、歴代の教え子さんが一挙に集まったようです。なかなかお年を召されても集まっていただいた教え子さんたちを見て、おじいちゃんの人望と功績が輝く一日だったなと感じました。

思えば昔から、休日になるとおじいちゃんを訪ねて人がやってきて、健康食品の勧誘でもされているのか?と思っていました。それもみんな、昔の教え子たち。お茶を運んでいけば、いつものように穏やかに笑い、生徒と語り合う姿が今でも思い浮かびます。 ただ、そのくらいしか教員としてのおじいちゃんは知らなくて、知っているのはいつも優しく語りかける姿と、暖かく穏やかな後ろ姿だけ。

そのせいか、「もうあんな先生は二度と出てこないよ!」と、告別式の後に涙を流す方もいたのが、孫の自分としては新鮮というか。不思議な感覚でした。

教員の待遇改善を当時は訴え続けたという話をよく聞きましたが、徹底した現場主義というか、おじいちゃんと教育関連の話をするときは、やはり学級の中での子どもとの関わり合いや、現場の教員がいかにより良い教育ができるかという話題が多かったように思います。 その時も特別自分の教育観を語るのではなく、優しい口調で諭すように、一言一言、大事にアドバイスをもらったのを今でも覚えています。その話を聞いて、ぼくは中高の頃に教員を目指したこともありました。

教え子さんの話によれば怒る時はしっかり怒り、とても恐ろしかったと話を聞いたけど、それ以上に一緒に川や田んぼで遊んだことしか記憶にないそうで、戦後すぐに代用教員となり、父(ひいおじいちゃん)が若いうちに亡くなったことで頼れる人もいない中、自分のスタイルとして一教員としての道を切り拓いていったのかなと思います。

そんな話をお酌をしながらいろんな方から聞いて、あの運転席の穏やかな後ろ姿がより一層、静かな強さをもって思い出されるようになりました。そのことが、自分にとっては本当に大きなことで、今まで以上に故人のことを大事に思えています。 自分の知らない、大切な人の一面を知ることができたのが、これほど嬉しいことだとは。

そう思えるようになったのもおじいちゃんの真っ直ぐに生きた事実があってこそ。 85年という長い月日をかけて積み上げてきたものは、本人がこの世からいなくなっても、その時代を生きていた大きな証として残るのだと、改めて感じました。もちろん大勢の人が来てくれるのはありがたいことだけど、そういうことだけではなくて。

例えば「○○さんはお酒が好きだったから、今日も楽しく同窓会のような雰囲気でやりましょう」とか。意思を尊重してもらえたり、生前の想いを汲んでもらえるような真っ直ぐな生き方がしたいな、と思った所存です。

年の瀬も迫り、お酒を飲みながらふと、「そういえば、おじいちゃんは甘めの地酒が好きだったな」と思い出し、感傷に浸る晦日でした。