いなたいショーケース

反射的に投げ込んでいく実験です

大学院に落ちてわかったこと

こんなダサいタイトルの記事に価値はないかもしれません。 ただここに書くことは自分の本質を貫くことな気がしてならず、ついに書いてしまいました。この時期に。

ぼくは大学4年で内部の大学院を2回受験し、2回とも落ちました。 そして研究生として研究室に残ることよりも、別の進路を目指すことを選択しました。

大学の同期が卒業し、社会人や大学院生となった今春。 ぼくは今休学しています。

休学した自分が今何をしているかはさておき、今回は約1年間の大学院受験を経て思ったことを少し書こうと思います。こんな恥ずかしいことを書こうと思ったのは、周りの友人たちが大学院に落ちたことを気遣ってくれて一向にネタにしてくれなかったので、じゃあそれなら自分で書いちゃえ!って思った次第です。

爽やかなスタートを切った友人たちへのハナムケの言葉になればいいな、なんて思います。たぶんならないけど。

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photo credit: kevin dooley via photopin cc

若さを引き換えに研究をすることへの恐れ

ぼくの受験のスケジュールを整理しておくと、
【大学3年次】
2月 ぼちぼちと勉強スタート

【大学4年次】
6月 志望校選定。内部の大学院だけを受験する。

8月 受験(1回目)一日目の筆記試験で躓き、二日目の面接に進めず。

9月 もう一回勉強スタート

12月 今度も内部にだけ願書提出。

1月 受験(2回目)また筆記試験で落ちる。

って感じです。内部だけを志望した理由は、今の大学がやりたい研究をさせてくれるベストな場所だと考えていたからです。もしかしたら他にいい環境があったかもしれませんが、別に後悔をする選択ではありません。難易度についても、ぼくが言うのもおかしいですがそこまで高すぎることはないと思います。

内部生も外部生もある程度フラットな立場で評価されていると思いますが、根拠はないのでこれについては割愛。とりあえず、ぼくは落ちたという事実だけ。

1回目の受験に失敗したとき、いろんな進路の選択肢が頭の中で駆け巡りました。再受験、就活、休学……ありとあらゆる選択肢を考えた時、自分は20代前半で研究に没頭できるのか、という疑問が浮かびました。今ここで研究室で何年かを過ごすチョイスをすることに対して、不安というか、怖さに近いものを感じたんですよね。

自分の専攻は多くの理系研究室のように修士からの就職先が数多くあるわけでもないので、そのまま研究者になるか、そうでなければ上級公務員などに行くパターンが普通のようでした。こう言うと研究者志望の方に誤解を与えてしまうかもしれませんが、ぼくはどうしてもいつ空くかわからないポストを求めて研究室に残り続ける自分がイメージできませんでした。

そういう進路を否定しているのではなく、まだ年齢的にも選べる選択肢がある中で、他の興味関心があるものを置いて研究を続けられない気がしたのです。

昔からぼくは好奇心旺盛でいろんなことに興味が出る一方、飽きっぽく、すぐ熱が冷めてしまうところがあるので、選択肢を一つひとつ潰していよいよ追い込まれた段階じゃないと研究室の机に向かっていられないと思ったのです。1回目の受験が終わった時に感じた怖さは、他の選択肢を捨てて研究に向かう覚悟ができていない現れでした。

大学院に入れる自分になりたかった

カレンダーに戻る。 1月末にはもう一度受験がありました。これがラストチャンス、と思いながら卒論を書きながらの受験勉強を続けました。根拠のない自信は常にあって不思議と落ちるイメージがなかったのですが、かといって集中して他の人よりも勉強していたかと言われると、今思えばそうでもなかった気がします。

結果は不合格。今回も筆記で落ちたのでぐうの音も出ない結果です。

勉強方法が悪いのか、ぼくの頭が悪いのか、たぶん両方だろうけどそれはあまり関係なくて、問題は受験が終わった後すぐ気持ちが次の進路に向き合えたことでした。さすがに2回筆記で落ちたのでアカデミックな世界は向いていないと思ったのもありますが、悲しい現実に目を向けなかったのはなぜなのか。

ぼくはどちらかと言えばサークルとかバイトとかで学生生活を費やした人間でした。言ってしまえば、大学の勉強以外ではそこそこ成果を出していたと思っています。

弱点は毎日の授業でした。内容に感心はあるのですがずっと教授の話を聞き続けることが苦手で、それよりも大学に提出する書類を作ったりニュースサイトを見ている方が好きでした。ただ、そんな自分は嫌いで、授業が少なくなった3年4年になってから後悔の思いが募るようになりました。

たぶん一般的に言えばぼくは劣等生でした。

その劣等生の学生生活最後の進路決定のタイミングで、課外活動に打ち込みすぎた後悔を「大学院合格」という免罪符でごまかしたかったのかもしれない。充実した大学生活の最後の「学業」というピースを埋めるために、キャリアではなく、たぶん結果が欲しかったんです。

しかし自分の理想像と実際の能力とのギャップは大きく、結果は得られなかった。だから次の自分の空白を埋めるためにすぐに他の選択肢を選べたんだと思います。自分はとても不純で、とても幼稚でした。満足はしてもしきれないのに。

本気で研究したいなら、いつでもできる

そんなこんなで進学の選択肢は綺麗さっぱり諦め、別の進路を歩もうとしていた矢先のこと。最近社会人院生の方と話す機会がありました。

その方は企業の人事部に勤められていて、研究について楽しそうに語る姿が印象的でした。その方は研究と実践(仕事)がクロスオーバーしていて、実生活に即したテーマを研究に引っ張り、アウトプットを仕事に持ち帰ることをされていました。

ぼくはその研究スタイルが羨ましく、ありたい姿だと感じました。個人的には「研究するなら実践科学(に近づけたもの)じゃなきゃイヤだ」っていう思いが強いので、仮説と実生活の中での現象との差異であったり、アクションの影響性を直に感じられるところにLike!って感じ。

社会人の院生は夜まで仕事をし、その後大学院に来るような負担の大きいであろう生活でも、やりがいを感じられてる(すごく陳腐な表現で情けないけど)。もちろん普通に研究していてもやりがいは得られるだろうけど、論文投稿をしてより広く知られる研究者として大成したいとかじゃなくて、もっとミクロな課題に対してアプローチして自分もその影響を感じられる(かもしれない)場にいられることが素敵だと思いました。

その方とのお話の率直な感想は「忙しくても『今研究したい』というタイミングを得ることができれば、研究は可能なのかもしれない」ということ。少なくとも「今じゃないのかもしれない」と思えるようになったのです。

そう思った時、研究への恐れとか大学院合格の結果が欲しかった傲慢な自分とかすごくネガティブだった思いが消えて、いつか進学のチャンスをもう一度掴みたいという思いが生まれました。

というわけで要するに、チャンスはいつかまた巡ってくるだろう、っていうつまらないオチ。 ただ、気持ちは晴れやかです。

いろんなものを背負いながら本気で向き合いたいことが見つかって、もやもやしたものが胸のあたりでつっかえていたのが取れた気分。

ここからを新たなスタートとして頑張っていけたらと思っています。

それでは長くなりましたがこのへんで。