いなたいショーケース

反射的に投げ込んでいく実験です

その暖かな後ろ姿に想いを込めて

約半年前、ぼくが休学して関西にいたときのことです。 その日、バイト先から帰宅しようとビルの外へ出た一歩目、珍しく父親から着信が。 入院していたおじいちゃんの容態が急変したとの連絡でした。

夜に予定していた先輩との食事や、次の日に入っていた打ち合わせ、週末のワークショップの準備など、全てをキャンセルさせてもらって新大阪駅から新幹線に飛び乗った矢先、名古屋へ向かう車内の中で、おじいちゃんの死が報されました。 85歳でした。

思ったよりもあっけなく、そして思った以上に早く、その時はやってきました。 父からの電話が切れた時に得たのは、事実を受け入れまいと頭と身体が乖離してしまったような感覚。 元々末期のがんを抱えていて、覚悟はしていたつもりだったにも関わらず、いざその報せがやってきた途端に空虚な気持ちが深呼吸と共に口から全身に回っていきました。

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おじいちゃんとの思い出を振り返ってみると、ぼくの両親は共働きで夜も遅くなっていたので、ぼくが保育園に通っていた頃の送り迎えは全て祖父母がしてくれて、自分の弟たちが小学校にあがるまでお世話になりました。 よくよく聞いてみるとその送迎の歴史は従姉たちから始まってて、それを合わせるとなんと15年以上も孫たちを乗せて毎日運転してくれていたみたい。

もちろん従姉たちと年齢的にかぶる時もあったので、いつもいつも、小さな子供たちをたくさん載せて。 車内がうるさくても穏やかに運転するおじいちゃんの背中を、後部座席から覗いていました。

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報せを受けてから3日後の告別式当日。生憎の強い風雨の中を、ありがたいことに500人くらいの方々がお越しくださって、会場の受付はてんてこまいに。ぼくがスタッフと一緒になって返礼品を運ぶくらいのもので、来てくださった方にはなかなかご迷惑をお掛けしました。 おじいちゃんは元々小学校の教員で、歴代の教え子さんが一挙に集まったようです。なかなかお年を召されても集まっていただいた教え子さんたちを見て、おじいちゃんの人望と功績が輝く一日だったなと感じました。

思えば昔から、休日になるとおじいちゃんを訪ねて人がやってきて、健康食品の勧誘でもされているのか?と思っていました。それもみんな、昔の教え子たち。お茶を運んでいけば、いつものように穏やかに笑い、生徒と語り合う姿が今でも思い浮かびます。 ただ、そのくらいしか教員としてのおじいちゃんは知らなくて、知っているのはいつも優しく語りかける姿と、暖かく穏やかな後ろ姿だけ。

そのせいか、「もうあんな先生は二度と出てこないよ!」と、告別式の後に涙を流す方もいたのが、孫の自分としては新鮮というか。不思議な感覚でした。

教員の待遇改善を当時は訴え続けたという話をよく聞きましたが、徹底した現場主義というか、おじいちゃんと教育関連の話をするときは、やはり学級の中での子どもとの関わり合いや、現場の教員がいかにより良い教育ができるかという話題が多かったように思います。 その時も特別自分の教育観を語るのではなく、優しい口調で諭すように、一言一言、大事にアドバイスをもらったのを今でも覚えています。その話を聞いて、ぼくは中高の頃に教員を目指したこともありました。

教え子さんの話によれば怒る時はしっかり怒り、とても恐ろしかったと話を聞いたけど、それ以上に一緒に川や田んぼで遊んだことしか記憶にないそうで、戦後すぐに代用教員となり、父(ひいおじいちゃん)が若いうちに亡くなったことで頼れる人もいない中、自分のスタイルとして一教員としての道を切り拓いていったのかなと思います。

そんな話をお酌をしながらいろんな方から聞いて、あの運転席の穏やかな後ろ姿がより一層、静かな強さをもって思い出されるようになりました。そのことが、自分にとっては本当に大きなことで、今まで以上に故人のことを大事に思えています。 自分の知らない、大切な人の一面を知ることができたのが、これほど嬉しいことだとは。

そう思えるようになったのもおじいちゃんの真っ直ぐに生きた事実があってこそ。 85年という長い月日をかけて積み上げてきたものは、本人がこの世からいなくなっても、その時代を生きていた大きな証として残るのだと、改めて感じました。もちろん大勢の人が来てくれるのはありがたいことだけど、そういうことだけではなくて。

例えば「○○さんはお酒が好きだったから、今日も楽しく同窓会のような雰囲気でやりましょう」とか。意思を尊重してもらえたり、生前の想いを汲んでもらえるような真っ直ぐな生き方がしたいな、と思った所存です。

年の瀬も迫り、お酒を飲みながらふと、「そういえば、おじいちゃんは甘めの地酒が好きだったな」と思い出し、感傷に浸る晦日でした。