いなたいショーケース

反射的に投げ込んでいく実験です

家族との会話に思う、「教育」

どうも! こうめいです!

今日は年末年始に実家に帰省して、両親や祖父母との何気ない会話の中で自分が感じたことをメモします。 「教育」はただ受けているだけではもったいない、という話。

 

ぼくの実家では夕飯を食べているときにテレビで自分たちの知らないニュースや話題があると、 「これってどういう意味?」 「この決定で自分たちに影響はあるの?」 のような話になります。だいたい質問するのはぼくです。

 

親父は社会科の教員なので、主に経済や政治に関してわからないことを聞きます。 今回の帰省では「財政の崖が日本、国民に与える影響」を解説してもらったのですが、 丁寧に教えてもらって、内容を十分に理解することができました。

大学生が現代の世界的な問題を知らなくて笑いながら馬鹿にされましたが、 恥ずかしくても聞いておいてよかったと思いました。

 

振り返って思うと、昔からぼくはわからないことはすぐに解決したくて、 親や祖父母を質問漬けにしていた覚えがあります。 母には上手な朗読の仕方と書道の筆さばきを、 祖父には地域コミュニティを活性化させる取り組みを、 祖母には健康な身体をつくるための簡単レシピを、 「どうしても知りたい!」「自分もできるようになりたい!」という一心で聞いていました。 これは「教育」の一つの形です。

 

そしてさらに振り返ると、強い思いをもって聞いた話は今になっても活かされており、カリキュラムとして決まっている学校の勉強よりも、とても身についているものが多いです。 「実践に即しているから」と言ってしまっては終わりですが、やはり「学びたい」という気持ちが重要なのだと思います。 そして、その気持ちを受け入れるだけの指導者の余裕や覚悟も同じように重要です。

 

「教育」という字は「教え育てる」と書きますが、ぼくは最近、 「教育」とは「教える」人と「育つ」人の関係性なのではないかと考えています。

 

内容が教育であることを定義するのではなく、関係性が教育たらしめる。 実家でのやりとりの中で、「教育」というものについて考えた結論です。

言葉遊びになってしまったかもしれません。 ただ、関西の高校の体罰の話題に関しても、関係性の中での「教育」の構築がうまくいかなかったのではないか、とも思ったりします(詳しい事実関係がわからないのでこれ以上は言及しませんが・・・)。

 

つまり、今日言いたかったのは

「全力で教えるぞ!」という覚悟と 「育ちます!成長します!!」という覚悟が

学びを形成していくんだろうから、まだまだ学び足りないと思う人は成長した自分をイメージしながら努力してみようということです。 そして、成長する覚悟があればどんなことも学びになるんだ、ということも。

ただ受け身になって机に向かうよりも、気持ちがスッキリするのではないかと思います。

 

明日はセンター試験ですね。 結果に一喜一憂するかもしれませんが、結果が良くても悪くても、それを受け入れた後に 「まだまだ自分は伸びる!」と信じて努力することが大切だと思います。

先生方はきっと、その気持ちをしっかりと受け止めてくれるはずです。 受験生の皆さん、頑張れ!!

 

 

ではでは!